終わらない夢を

あなたならきっと描ける

シアターコクーンがジレッタ館になった日

 

横山さんの主演舞台『上を下へのジレッタ』が東京千秋楽を迎えました。

まだ大阪公演も残ってはいますが、個人的見納めは済んでしまったので一区切りの気持ちで感想を連ねようと思います。

 

いやーーー良い舞台だった、良い妄想歌謡劇だった、、、、

 

 

思い起こすと2015年、横山さんがグローブ座で『ブルームーン』のストレートプレイが決まった時、私含め大体の方の反応が「まさか横山さんが主演舞台をやる日がくるなんて」だったことを覚えています。

「横山くんの主演舞台なんて、もう後にも先にもないかもしれない」そう言っている人も見かけたし、私も「確かに」と思ったし、そんな息巻くオタクたちが集うジャニーズの舞台の険しさ(チケット的な意味で)も思い知った。(遠い目)

 

そんなオタクたちの意に良い意味で反しまくって横山さんは映画にドラマにと、役者仕事でお忙しくされた昨今。(これがいかに最高だったことも書きたくなったけれど思いとどまる)

それでも今回のような「歌って踊る」、言わばミュージカルの気色の強い舞台に横山さんが出られる未来を想像出来た方っています?少なくとも私はしてなかった。横山裕さん未来予想図にこの妄想歌謡劇が組み込まれていた方は手塚治虫ばりの先取り能力があるのではと思ってしまうくらいに、想像だにしていない境地でした。

 

 

以下から、そんな新境地横山裕とも言える舞台『上を下へのジレッタ』感想および考察になります。大阪公演を控えてネタバレを避けている方は読まないでね。

横山さんのあそこがここが!というよりは、お話全体を通して私自身が考えたことも多分に含むのでそういったものが肌に合わない方も気を付けてね。

 

 

 

 

もう一言にまとめてしまえば「最高だった」(大の字)に尽きるんですけど、まず感動してやまなかったのが「原作との齟齬がほとんどないこと」です。

 

情報解禁されてから間もなくに原作を読んだのですが、(余談ですが姉が好きで手塚治虫作品は我が家に結構な量が揃えられているのですがジレッタはなく、いかにコアなところなのかという…笑)開口一番「どうやって舞台にすんねん」でした。

単純に私が舞台芸術に明るくないという要因もかなりあるとは思うのですが、あまりにも抽象性が高すぎる、あまりにもスケールがでかすぎる、SFだ…(小並)って感じを舞台上で表現することがまったく想像できませんでした。

そのため話のモチーフだけ借りて、結構脚色するのかなあと勝手にぼんやり思っていたり。

 

まったく思い違いでした。手塚作品が舞台化された、それ以上でも以下でもない作品でした。

ジレッタの世界の表現、それに伴う場面転換、「舞台でやるとこうなるんだ…!」と感動しきりでした。脚本家さんって天才ですね。いや本当に。

個人的にツボだったのが、漫画感剥き出しの大道具とジレッタから現実世界への場面転換時のアナログっぽさ。良い意味でチープで、漫画原作の活かされ方が絶妙だなあと思いました。

門前さんが平然と1週間後の事務所の電話を工事現場で取る場面とか、医師たちの背中に隠されてはけていく山辺に強引さを感じて楽しかったです。

あと裁判の場面で門前さんが自分で証言台を運び、撤去するところが可愛くて好き。自前証言台みたいな感じがして面白い。

 

ジレッタの世界をいかに具象にするか。原作を読んで最も気になっていたことですが、ここは「歌謡劇」ならではの色彩と音楽、踊りによる感覚への刺激で現象が曖昧にされていて素敵でした。

後述しますが、この現象が曖昧に歪められた世界に佇む横山裕さんが一人その美しさに現実と虚構を内在しているかのように思えてしまうのが、個人的にはこの舞台の一番の醍醐味であり最高な要因だと思ってます。

 

そして最後が工事現場の鉄骨のシーンで、音波がフェードアウトしていって終わるのが、この劇場という空間だからこそ意味のあるもので、素晴らしいなと思いました。

私たちは最初から最後までジレッタの中でこの『上を下へのジレッタ』という物語を味わっていたのかもしれない…劇場にそんな空気が満ちる瞬間が大好きでした。

 

 

後述該当箇所の話をします。

 

 

いや本当にこの舞台、横山さんの造形物的な美しさにあの門前さんのライフルで打ち抜かれる観客って感じじゃないですか。

 

冒頭のチープなネオン街に派手だけれどやっぱりチープなロングジャケットを着て歌い出す横山さん演じる門前さん。

安っぽいきらめきに包まれたそのお顔が輝きを放つダイヤモンドすぎじゃないですか!?

大抵の横山担が愛してやまない横山さんの繊細なファルセットも相まって夜空の宝石かと思いました。ターンが美しすぎて星が散った。

 

舞台の隅に佇む姿、ソファに腰掛ける姿、 足を組む動作、羽根のように軽やかな身のこなし、どこを切り取ってもモニュメント的な美しさがあって今ここでこうして呼吸して歌を歌ってる事実が嘘みたいでした。横山さんの存在がまやかしみが強すぎる。

 

なんといってもそのまやかしが頂点に達するのが『虚構の共犯者(リプライズ)』。

ここまで観てきた私たちは、門前さんというキャラクターが孤高の天才でありながら、追い詰められると異様に弱い(マスコミに謝罪を迫られる場面)人間的な側面もうかがえることを知っています。

そんな門前さんが花魁に囲まれた妖しい空間に現れ、その異色さと風変わりなダンスに合わせ「すべてまやかし すべては虚構」と歌う姿は横山さんの美の要素を惜しみなく引き立たせると同時に私たちの中にあった現実味を一挙に取り上げます。

人間的精神を虚構みたいな美しさでねじ伏せてくるあの感じ。アンビバレントな社会を歌い上げる門前さんもとい横山さんの存在が最もアンビバレントなわけですよ。

それでも横山裕さんは確かに息をしていて現実の存在だということ。改めて分からせてくれたこの作品に感謝。

 

 

 

演出、横山さんの美についてと触れてきましたがお話そのものにも触れたいと思います。

 

個人的にこの舞台に始終満ちている「寂しさ」がすっごく好きで。

 

門前さんの天才がゆえの孤独感、リエの門前さんへの意地、チエとジミーの認められるのは偽りの自分だけという辛さ、山辺の望みもしない才能という歌詞に示される宿命的要素。

登場人物みんなが現実への寂しさをどこかに感じていて、そしてそこに一貫してあるのは承認欲求だと私は思いました。

『食うか飢えるか(リプライズ)』のチエが山辺に向けて歌う「世界中が認めなくたってわたしが認めてあげる」の言葉がこのストーリの根幹なような気がして、大好きで、形はどうあれみんな何かに認めてもらうことへひたむきなんだよなあと胸がきゅっとしました。

 

世界中を巻き込んで、世界中から賞賛を浴びても門前さんが欲しいのは結局リエに認められることで、彼女に認められなければ意味はないんですよね。

リエもリエで、門前さんを理解して、彼の承認欲求を満たすのは自分だけだと思ってる。

 

上手くいけば、とことん上手くいくはずな2人なのに、こじれきってしまう様が切なくて苦しかったです。

チエと山辺が支え合って夢を追いかける2人であるならば、門前とリエは支え合って夢を創り上げていく2人で、ただ門前さんは夢、フィクションを創り上げるジレッタの圧倒的存在に狂わされ、潰されてしまう。

 

なんとなく、こういった驚異的な力を前にした人間の無力さは現代にも通じるテーマだよなあと感じます。

そういったテーマ性、人間模様については観劇の回数を重ねるにつれ考えさせられ、同時に切ない気持ちになり、良い作品に出会ったなあとしみじみしています。

 

 

 

ここまで書いていてハッとしましたが、こんな感じに登場人物の心の機微に集中して気にしてみたりする余地に及ぶということは、横山さんの演技をする姿が着実にモノになっているということですよね。横山さんが演じる門前市郎という人物を門前市郎として違和感なく見られているということ。どうしよう、今気付いた、嬉しい!!!!

 

私が門前さんの台詞で一番好きなのは、チエが亡くなった病室で山辺に詰め寄られた時の「俺の専門はフィクションだ。現実についてはなにも教えてやれない…」と項垂れるところです。

フィクションで現実をねじ伏せてきた門前さんの心がチエの死によって、理不尽な現実によって折れてしまう場面。この時の横山さんが見せる表情の辛さ、苦しさ、絶望感が素晴らしかった。

 

 

歌って踊る横山さんの新境地、と言いましたが、演技という面では映画、ドラマを通じて培ってきたものを感じられて嬉しかったです。

 

歌唱場面に関しては、各所で言われているようにどんどん上手になっているように思えました。少なくとも私が観た3公演では最後に観た回が一番良かった。お腹の底から声が出ていることがすごくよく分かった。

ずっとずっと成長を見せてくれる横山さんが大好きです。

 

舞台そのものに絶賛しているのですが、横山さんがキャストにいなければこの舞台に巡り合うことも恐らくなかったわけで。ファンは素敵な機会をもらったなあと思うばかりです。

 

 

今日は東京千秋楽のレポを見て充足感でいっぱいです。

大阪公演、大千秋楽までどうか無事に終えられるよう応援してます!